愛和食品さんは、早川恭彦氏のお父様が1963年に創業された菓子問屋が発端で、現在は主に遊戯ホールを対象とした食料品・日用品等の卸販売を営んでいらっしゃいます。早川恭彦氏は2代目として、35歳のとき2006年に社長に就任されました。元々は「人が幸せになること」を願っていたにもかかわらず、「社長はこうあるべきだ」という概念から、いつの間にか、それを捨ててしまい、社員にも辛くあたり、自分自身も見失ってしまったそうです。しかし学びの結果、今では自分らしく正直に生きることができるようになったとおっしゃっています。どのような道を歩んでこられたのでしょうか。
永住するつもりのアメリカから帰国
私は、高校卒業後、自分の道を行くと決め、アメリカの大学に留学しました。
小さい頃は、父や母から「お前が跡を継ぐんだぞ」と言われていましたが、そのうち何も言われなくなって…。
社長を継ぐに値しない人間だと自分で思い込んでいたんです。
大学在学中、2歳年上のある日本人と出会い、その人と古着の買い付けの仕事を始めました。膨大な古着の中に、お宝ともいえる凄い服があるんです。アメリカ中を飛び回って、それを探し出し、日本のバイヤーに売っていたのですが、もの凄く儲かりました。
大学では、ビジネスを専攻していたのですが、学んだばかりのロジックを翌日に実践したりして、学業、仕事とも充実した日々を送っていました。
私としてはこのまま仕事を続け、アメリカに永住するつもりでいたのです。
しかし、父の会社でトラブルがあり助けが必要だと、姉がアメリカまで私を説得に来ました。
「こういうときだからこそ、あなたしかできないことがあるんじゃない?」「アメリカに留学できたのも両親のおかげ。その両親が大変な時に、助けないで、いつ助けるの?」と。
それを聞いたとき、私が何か出来るのであれば今だ、恩返しするべきだ、と思いました。
もちろん、ずっとこのままアメリカに居られれば楽しいはずで、かなり未練はあったのですが、家族は捨てられない、と思ったんです。
自分自身を失ってしまった10年
こうして23歳のとき、日本に帰ってきて入社しました。配送や商品管理、商品の選定・仕入れなど、いろいろな業務を次々と担当しました。
入って1週間目に「お前、これ位分かってなくってどうするんだよ」と激怒されたのをはじめ、入社してからの苦労は数知れず、何度泣かされたことか…。
それに耐えつつ、持ち前のハングリー精神で頑張りました。
そのころから、私には信念があったんです。「みんなが幸せになる会社にする」という信念です。ですから課長とかの役職の頃は、みんなの兄貴みたいな感じで社員とも接していました。
しかし、社長になる、ならないといった時期に一回捨ててしまったんです。その信念を。
「業績を上げないといけない」とか、「社長はこうあるべきだ」という勘違いから。
そしてその間、私は社員たちを痛めつけてたんですよね。もちろん、私自身は痛めつけるつもりはなく、教育しているつもりだったんですが、彼らにとっては散々だったはずです。
例えば、持ってきた仕事が私が思ってるクオリティじゃなかったら、「何やってんのこれ。僕こういうふうに言ったよね。お前何やってたの?」「こんなの仕事じゃない、ここまでやってから持ってこい」って言って、バーンって突き返して…。言い訳も聞かない。
今から考えると、社員たちも「ハイ、ハイ」と言うしかない状態でした。「この会社を良くしないといけない」という強い思いから、千本ノックしちゃってたんです。
また、今思うと、この頃は自分自身、かなり無理をしていましたね。自分の思い描いている理想の社長像に合わせて、自分を作り上げようとして…。
「こういう風に見せたい」、「こういう風に見て欲しい」という願望がかなりありました。
この様な感じで、10年ほど自分自身を失ってしまってしまった時期が続きました。
社員も継続して採用して、入社した時には60名だった社員も2倍以上に増え、業績も上がってきていたのですが、社員たちにとっても、私自身にとっても辛い時期でした。