ヒーロー達の物語
HISTORY OF HEROES

苦節40年 不平不満、不安の会社に温かい風が

タカラ印刷株式会社

代表取締役 林 克重

タカラ印刷さんは創業64年で、林克重社長は3代目です。生まれたときから跡取りとしての人生を運命づけられ、20歳のときに入社してから約40年もの間、苦節の道を歩まれてきました。「いい会社にしたい」と思えば思うほど空回りし、その思いとは裏腹に、社員との社長間に不平不満不安が蔓延している会社だったそうです。それが、今では社長ご自身も「社員のことが愛おしい」とおっしゃるほど、温かい雰囲気に包まれた会社に変わりつつあります。

跡取りとして生まれた宿命

タカラ印刷は祖父(母方の父)の出資金をもとに、父が昭和29年5月に創業した会社で、活版印刷という活字による印刷をスタートしました。
私が生まれたのは昭和30年1月なので、母のお腹にいるときから会社は動き出していました。
「お前が跡取りだ」ということで、生まれてすぐから跡取りとしての人生が運命づけられていたわけです。

当時は、右肩上がりの高度経済成長期。
父も頑張り、福島の活版印刷では伸び盛りといわれるほどの会社となりました。
しかし、残念ながら私が10歳のとき、父が原因不明の病気にかかり、入退院を繰り返していくうちに、会社がだんだん衰退していくという状況に陥りました。
 
私は中学を卒業後、東京にある高等高専グラフィック工学科に行ったんです。
だから、私が福島に帰って来るまでは、母と姉が父の看病をしながら、印刷の仕事もやって本当に頑張ってくれました。
母は「工場を守る」という意思が強かったんですね。
また、東京の短大を出た姉も戻ってきて営業を担当し、女性陣が会社を支えてくれていたわけです。

お客様が父を見捨てなかったこともありがたかったですね。
普通だったら存続しなかったはずです。

経営のノウハウもないまま、突っ走る

私は卒業後すぐ、20歳で戻ってきて仕事を始めました。
本来、どこかで修業をしてから戻るべきだったんですが、父が余命半年といわれていたので、どこへも行けなかった。

そのときは社員が5、6人いて、今にもつぶれそうな工場で、床や壁に穴があっちこっち空いているような社屋でした。
そもそも会社としての機能が果たせないという感じでしたね。納期遅れや校正ミス商品を納入してしまったり、仕上げ断裁の寸法を間違って納品できなかったり…。

私は、グラフィック工学科で様々学んで「こうありたい」という理想論をいろいろ抱えて福島に戻ってくるわけですよ。
そして、現実を見て「ここの会社がダメなのは母のせいだ。」「社員のせいでダメなんだ。」と、とんがっていましたね。

そんななかで、現場の社員がとっても苦労している工程があって、その工程を何とか楽にしてあげたいと思い、最新の機械を入れたんです。
工場の土地を担保にして3000万ぐらいの設備投資を行いましたが、技術者・営業育成がままならずに投資が販路に繋がらず。
本当にどうやって年を越そうって事がありました。
社員には雀の涙でしたがボーナスも出すんですが、現金がなくって…。餅を買うのもやっとでした。
私も給料はもらわないまま、ずっといました。
それが20歳から5~6年、続きましたね。

父が亡くなったのが24歳のときで、それからですか。少し自分が変わってきたのは。
世間知らずの跡取りがカバンもってお客様の所へ伺いひたすら頭下げていると、不思議なことにだんだん仕事って増えるんですね。
何もできない人間なんだけど、一生懸命やっていると、少しずつ仕事が広がっていって、新しいお客様からお仕事をいただいたり、うちに発注を切り替えていただいたり…。

こうして、25~26歳ごろに少しずつ会社が出来始めたんですが、とにかく人の出入りが激しかったですね。
私としても、どう経営していいか分からないままでしたから…。
あの頃に居た社員には申し訳ないなと思いますね。

でも、なんとか少しずつ良い方向に向かっていって、30歳ぐらいのときに、福島大学経済学部の助教授による、地元中小企業の若い社長を集めた勉強会に従弟から誘われ、参加するようになったんです。数か月に1回集まって、先輩社長の講話や企業訪問、MBAのゼミの一環のような学習会があったり。
そこで私はすごく勉強させていただきました。勉強会は、10数年続いたのですが、世間の広さを感じましたね。
この勉強会がなければ井の中の蛙のままだった。
それまでは、とくかく目の前のことにがむしゃらだったんですね。

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