アールアイは、斎藤一博氏のお父様が創業された会社です。入社後、とにかく忙しく、目の前にある仕事を感情もなく、こなされてきました。当時は“仕事は仕事”と考え、社員とコミュニケーションなど取る必要はないと思っていたそうです。42歳の時に社長に就任され、組織の仕組みづくりに取り組まれたのですが、それだけでは足りないと思い、心の仕組みなどを学ばれるようになりました。今では、社員と一緒にいる時間が楽しくて仕方がない、社員の成長する姿を見るのが何よりも嬉しいとおっしゃっています。
自転車競技に没頭
私は4人兄弟の長男として育ちました。子どもの頃を思い起こすと、父はいつも仕事で忙しく、家にいた記憶がありません。小さい頃から、周りからは「2代目、2代目」と言われていましたが、父から「お前が継んだぞ」と言われたことは一切ありませんでした。
「自分の好きなことをやれ」と言われて育ったわけですが、中学までこれといったものをしていなかったので、高校に入ったら自分を変えるために何かに熱中したいと思っていました。そこで、父の勧めもあり、自転車競技をすることにしました。
高校の自転車競技部の部活自体は活発ではなかったので、クラブチームに入りました。毎年ほとんどのメンバーが全国大会に出場するほどの強豪チームです。
朝4時に起きて、みんなで集合し、東京都内から埼玉まで自転車で往復した後、学校へ行く。学校が終わったら、クラブチームがある練馬まで行って練習する、というのが当時の日課でした。休みの日は、中野から奥多摩・山梨までひたすら山の中で自転車をこいでいました。
みんなで切磋琢磨して練習を重ねる。そんな日々をくり返しながら、どんどん勝ち進めるようになりました。大変でしたが、仲間と一緒に上を目指していくということが、とにかく楽しい時代でした。
「仲間と上を目指していく事が楽しかった」
高校卒業後は、大阪にある実業団に入団。私は短距離のチームに属していたのですが、長距離のチームが自転車競技の本場であるヨーロッパに行くということを知り、是非とも一緒に行きたいと思い、準備をしていました。 そのような時、父が大阪に来て、初めて自分の会社のことを話してくれました。「実は会社を潰したんだ。でも次のことをやっているので心配ないから」と。新しいことを始めるので、その打ち合わせで大阪に来たと言っていました。
私は「会社を潰した」と聞いて驚いたわけでもなく、「大丈夫なのか」と言ったわけでもなく、あろうことか「ヨーロッパに修行に行きたいから、お金を貸して欲しい」と頼んだのです。本当にボンボンだったのですね。自分のことしか考えていない。今思うと、会社を潰すということはどれほどのことなのか、思い至ることのできなかった自分が情けない限りです。
会社を潰したということはお金がないはずだ、という感覚もありませんでした。でも、父は「いいよ」と言って、ポンと貸してくれました。 そんな父のことも深く考えていなかった私は、ヨーロッパに行けるという嬉しさもあり、さらに競技に没頭しました。国際大会のメンバーにも選ばれ、まさにこれからという時、競技中に転倒し、腕に怪我をしてしまったのです。手術が必要になり、一度実家に帰って手術を受け、リハビリ生活を送ることになりました。
運命の分かれ道
当時は、早く治して大阪の実業団で、また走るつもりでいました。そんな中、父から「リハビリしかしてないんだったら、電話番してくれないか」と声をかけられました。父は会社の再起のために奮闘していたところでした。 今思えば、自転車にも乗れず、ただ家にいる私への、父の精一杯の心遣いだったのかもしれません。しかし、実はこの時が私にとっての運命の分かれ目。結果的に私がこの会社に入ったきっかけとなりました。 後から聞いた話ですが、父は「息子が帰ってきた」とみんなに嬉しそうに言っていたそうです。今思えば、計画的だったのかもしれません。とは言っても、怪我をしたのも運命だったと思っています。
電話番として入ったはずなのですが、次から次へと仕事が振られました。配送はもちろん、父から「新しい機械のメンテナンスする奴がいないから、メーカーに行って勉強してきて」と言われて研修に行き、メンテナンスをしたりと、ありとあらゆることをしました。 当時の私には、ほぼ感情というものがありませんでした。言われた仕事、目の前にある仕事を、ただ淡々とこなしていくという感じでした。そうこうしているうちに、私が抜けたら会社が回らない、という状況になっていきました。 そこからは実業団に戻ることは断念し、がむしゃらに走って、ひたすら働きました。楽しいというのはもちろんないけど、辛いもない。それをやらなきゃ、前に進まないという状態でした。
一方、社内では社員が入っては辞め、入っては辞めをくり返していました。その時にいたメンバーで、今も残っているのは一人だけです。でも、当時は「中小企業なんてそんなものだ」と思っていましたし、とりあえず目の前にある仕事をこなすことに必死で、人が辞めていく理由など考える余裕もありませんでした。 また、“仕事は仕事”というスタンスだったので、社員とコミュニケーションを取る必要はない、と思っていました。「社員と話しても、どうせ愚痴を聞かなければならない」と思っていましたから、飲み会や社員旅行などに行くのも嫌でした。また、傷つきたくないという感情が常にあり、我を出すとみんなが離れていくような気がして、社員との関係を自ら遮断していたようにも思います。 だから、私はいつも孤独でした。必死に働いて、一人で走っているけれど、誰もついて来ない。とはいえ、走っていないと会社が回らない。人に任せることができず、自分で何でも抱え込んでしまう。でも「仕事はこんなもんだし、孤独であってもそれでいいんだ」と思い込んでいたのです。そんな状態が入社以来、20年近く続きました。
社長に就任するも危機感を抱く
2008年3月、父が「来月からお前を社長にする」と私に告げました。あまりにも突然のことだったので、「はあ?」と唖然としました。当然のことながら自信もなかったので、断ったのですが、全く聞き入れてもらえませんでした。 こうして、42歳で社長に就任したわけですが、銀行借り入れの保証人変更のサインはしましたが、会長となった父がいる間は、それまでとほぼ変わりはありませんでした。 今思えば、病気を患っていた父は自身の終焉をしっかりと見据えていたのでしょう。その時期、現在の場所への会社の移転を決め、お金の段取りもすべて済ませていました。 社長交代からわずか8か月後、父は亡くなりました。
そこからは「この会社を存続させなくてはならない」という思いだけで、必死に働きました。でも2年ぐらいたった時、「何とか会社は回っているけど、このままでは未来がないな」「何かを変えなければ…」と危機感を抱きました。父は「俺を見て学べ」というタイプでしたので、会社には仕組みとかが全くありませんでした。 そこで、ある研修会社に入って組織や経営の仕組みを学びました。学んだことを取り入れることで、業績的にも少しずつよくなって会社らしくなっていきました。また、新卒採用を行うようになり、社員も定期的に入ってくるようになりました。 こうして個人商店から会社へと変化していき、まずは喜びを感じました。ですが、次のステップに行くには、それだけではだめだろうな、と思うようになりました。この仕組み化は単純にロボット化しているだけで、人間が主体性をもって自ら動くことにはつながらないからです。そこで、そこで、自分自身を見つめ直し、相手を認め絆を深くする、といった心の仕組みに興味を持つようになりました。
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