宮地宏彰氏は株式会社山崎文栄堂「お役立ち事業部」で、サービスの提案を越えたお客様への貢献活動を繰り広げられています。苦労なく感じられた営業活動から少しずつ芽生え始めた懐疑心。そこにはご自身の課題がありました。会社の仲間、そして企業の垣根を越えた仲間から、ご自身の使命を見つけ出すまでのストーリーをお話いただきました。
山崎文栄堂との衝撃的な出逢い
私は1990年に大阪に生まれ、大学卒業まで大阪の地で過ごしました。故郷への愛着が強く、就職ももちろん大阪でするつもりでいました。ところが、就活支援会社のインターンシップで東京へ足を運ぶことがあり、そこで運命的に山崎文栄堂に出逢うことになりました。
私はもともと好奇心が強くフットワークが軽いので、就職活動中は数々の社長セミナーや説明会に参加をすることが楽しみでした。しかしその中で、山崎文栄堂の説明会に圧倒的に魅了されました。社長の山崎さんが発する明るいオーラ、そして社員の皆さんの活き活きとした姿。そこには説明会特有のかっちりとした体裁はなく、正直で自然体、ありのままの会社の雰囲気があったのです。気付けば質疑応答の場面でひとり5,6回も山崎社長に質問をし、説明会後も社長を追いかけ質問をし続けた自分がいました。何故だかわからないけれど駆られる思いで「この会社に行きたい」、そう直感で感じたのです。大阪で内定をいただいた会社があったのですが、「ちょっと待った」と一瞬で思い直したのでした。
大阪から東京へ夜行バスで通い、社員の皆さんに会えることが毎回楽しみだった数々の選考課程。1週間のアルバイト期間の際は、先輩方の家に泊めていただき、仕事帰りでお疲れのところたくさんの話を聞かせていただきました。優しく面倒見の良い先輩方に囲まれ、本当に恵まれていたと思います。説明会から始まり、私は山崎文栄堂の社員の人柄に強く惹かれたのですが、それは今も変わることなく私の心の支えとなっています。
裸一貫で上京、山崎文栄堂で仕事に燃えた日々
念願の内定をいただき、東京での一人暮らしが始まりました。東京には友人は誰もおらず、とにかく仕事に没頭していました。何も持たず裸一貫で大阪から出てきましたので、仕事へ対する思いが人一倍強かったのです。当時の私はギラギラとした雰囲気が際立っていたかもしれません。
1年目、アスクル事業部で外回り営業での新規開拓。渋谷のほぼ全域をビルの上から下まで躊躇なく回りました。「絶対に頑張ろう!」そう決めていましたので、大変と感じることはありませんでした。ただでは大阪へ帰れない、失敗はできない、そんな思いが手伝っていたのかもしれません。入社当初の営業活動は少しうまくいき、成約はどんどん増えていきました。そして新規開拓の記録を更新。社員の方々から「どうやっているの?」と聞いてくださったことがとても嬉しかったことを覚えています。
しかし3年目にさしかかる頃、徐々にモチベーションが落ち始めてきました。『本当にこれでお客様に喜ばれているのだろうか?』そんな感覚に苛まれるようになったのです。成約はどこかで自分のためにやってはいないか…。それまで強い意志と瞬発力で駆け回っていた私でしたが、次第に感情に波が出るようになります。
その後、溶解処理事業部に配属をされました。お客様とじっくり営業面談をし、困りごとを伺い解決をするソリューション提案型の業務です。お客様に寄り添える喜びを感じる一方で、それまでの自分の姿を含め、しっかりとお役立ちができているのか?その疑問が依然として心の中にあったと思います。
4年目、5年目の名刺事業部では、部長としてパート社員さんを含め十数名の部署でチームでの仕事を任せられていました。また新卒採用の責任者にもなり学生一人ひとりの人生に向き合う機会が多くなり、これまでより広い視野で物事を見て想いを伝えていく必要がありました。責任感や制約が増えると同時に、私自身の課題が少しずつ浮き上がるように感じられました。
自身の問題が明らかになったワールドユーアカデミーでの学び
入社4年目以降、チームワークでの仕事や部下を育てる力が必要になると同時に、上司や先輩方が通われるワールドユーアカデミーで、私も学び始めることになります。中でも内省内観を行なう「統合ワーク」では、自分は誰かに認められたい思いが強いことに気付かされ、大きな発見となりました。それまで一生懸命頑張ろうと持続してきたエネルギーは、どこかで誰かに認められたい思いからの活力だったのかもしれません。深く自身を見つめる中で、「自分自身と繋がれない」というキーワードが出てきました。自分で自分を認められず他人に認めてもらおうとしていた私は、まるで他人の中の人生を生きている様でした。「この人にこう認めてもらいたいから成果を出す」といった誰かの認証を求める気持ちは、満たされない思いから生まれるものでした。
「できません」と言えない自分も発見することになります。私はできていない自分を直視するのが嫌だったのです。できている一歩先の自分を見ては自己陶酔をする、いわゆる現実逃避を繰り返していました。現実がわからないと言ったほうが正しいかもしれません。尊敬する人から受け入れがたいことを言われると言葉が宙を舞い、心に届かないのです。そしてできている自分を装ってしまっていました。それも根底で自分と繋がれず、自分を受け入れられないからでした。
そのことが影響し、私は部下に上司からの言葉をコピペで伝えしまう癖がありました。 山崎社長や若狭専務は私にとって高い視点をもつ尊敬する方々です。お二人の言葉に共感するあまり、部下に伝わりやすい言葉に置き換えることなくそのままコピペで伝えてしまっていたのでした。そのため私が伝えたい思いも、部下が聞きたいアドバイスも言葉として響かないことが多々ありました。後輩は優秀でしたし、実はこれまで私は言葉ではなく、仕事をする姿を見せることで成長してもらえたらと感じていました。私はありがたいことに早くから仕事を任せてもらえ、プライベートでは周囲よりも早く結婚をし、子供も生まれたこともあり、何事も早く失敗しながらも色んな変化や経験をさせていただきました。ですから、後輩には感覚的に自身の行動で背中を見せて示せればと感じていたのかもしれません。しかし、それだけでは後輩にしっかり寄り添えていなかったのだと思います。もっと私らしい言葉掛けで後輩に必要なアドバイスが出来たはずでした。
統合ワークを終え、後輩を育てるのが苦手な私は、合っていても間違っていてもまずは「自分の言葉」で後輩に話してみよう、そう意識するようになります。するとある日、部下の方から私と話がしたいと相談を持ちかけてくれる出来事がありました。部下が悩みを打ち明けてくれたのです。そこで私も初めて自分の弱さを伝えました。自分も同じような弱い部分があり、一緒に変えていくことができる、一緒に変えていこう、そう寄り添うことが出来たのでした。
思い返せば、私も仕事に行き詰まりモチベーションが下がる時には、いつも先輩方に支えてもらっていました。辛いことがあっても、先輩方が私を励まし楽しい気持ちにさせてくれていたからこそ、私はこれまで頑張ってこれたのです。
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