石田由季さんは、株式会社山崎文栄堂お役立ち事業部で日々生き生きとお客様へのお役立ちを実践されています。入社後数年間、営業活動への苦手意識を払拭できず辛い思いをされた石田さんでしたが、会社でパラダイムシフトが起きると同時に、自分らしさを発揮されるようになります。28歳の石田さんに、会社の変化とご自身の成長の軌跡、そして今と未来への貢献の思いをお話いただきました。
「静」と「動」の習い事に打ち込んだ幼少期~十代
私は3人兄弟の末っ子として福井県の鯖江市で生まれ育ちました。兄弟は12歳上の姉と9歳上の兄です。年が離れているので大事に育てられ、まるで親が2組いるような感覚です。家では、兄弟全員が「静」と「動」の両極の習い事をする方針があり、体を動かすことが大好きな私は「動」の部分ではバレーボール、バトミントン、ハンドボールを。何針も縫うような大怪我をしたこともあるほど、どのスポーツにも本気で取り組みました。
「静」の面では、書道を小学校から大学入学後も同じ先生の下で続けました。「道」のつくお稽古ごとをとことんまで極めなさいと言われ育ちましたので、書道に長く親しみ、心を練磨しました。道具を整え姿勢を正すと一気に「静」の世界へ入り集中することができます。今でも筆ペンでお客様へお葉書を書く際には凛とした真っすぐな気持ちになります。
私は静岡大学へ進学をし、卒業後は東京で働こうと決めていました。就活情報を模索する中で、東京のある合同説明会の告知を見つけます。『これだ!』と思い、すぐに応募し東京の会場へ足を運びましたが、イベントは定員に満たず、なんとキャンセルに。キャンセル通知を受けていなかった私へ、運営会社が急遽インターン営業同行を組んでくださり、偶然にもこの出来事が全てのご縁の始まりとなります。
山崎社長との出逢い、譲れない思いとの一致
後日、この運営会社の新卒採用サポート部署でのインターンにお声掛けいただき、この間、沢山の企業採用担当者と社長に出会う機会を得ることとなりました。その中に山崎社長との出逢いがあったのでした。
「静岡大学なの?僕も静岡に縁があってね!」山崎社長は、初対面とは思えない明るい空気感でお話なさるところがとても印象的でした。学生と社長であることを少しも感じさせず、どんどん質問してくださるのです。壁を作らず対等な目線で私を知ろうとされる距離感にとても驚きました。
実は大学の経済学科での学びから、私の中で自身の労働倫理が芽生えていました。就職をするなら、私がどんな仕事をしているのか社長に知っていてもらいたい…願望のような譲りたくない思いでした。大企業に就職をした場合、私の名前や業務内容を社長は知ってくれるだろうか?知ってもらえなくても私は幸せだろうか?そう考えることがあったのです。
日本は98%が中小企業、残りの2%が大企業で成り立つ国です。中小企業の働き方が日本を変えていくと考えていた私は、山崎社長とお話をした時に感じた距離感がとても心地よく、「きっと山崎社長は誰かの頑張りを知っていてくれる方なのだろう」、そんな気持ちに包まれました。
山崎文栄堂採用説明会では、山崎社長からみた社員との思い出や、傍で見守ってこられたからこそ伝えられる成長のお話などをされていました。営業職には全く興味のなかった私でしたが、山崎社長のいる山崎文栄堂にとても惹かれました。
気持ちが置き去りになった辛い営業活動
数々の選考を経て内定をいただき、私は株式会社山崎文栄堂の社員となります。最初の2ヶ月間は、ひたすら飛び込み営業をする毎日でした。もともと営業が好きではなかった私にとって、飛び込み営業は孤独でゴールの見えない戦いのように感じられました。次第にどんどんと気持ちが萎んでいき、暗闇の中ひとりもがき苦しむような精神状態に。数字が欲しい、だけど気持ちは追いつかず、心身は反比例するように疲れていく。『もう回りたくない…』が本音でした。
辛い日々を送る中、内定後に山崎社長自ら福井の実家まで両親を訪ね、経営計画と理念を伝えてくださったことを思い出しました。両親は山崎社長がいらっしゃる当日の朝、「田舎の無人駅で手入れが行き届いていないから…」と最寄り駅を二人で掃除してくれました。とてもパワフルで真っすぐな山崎社長に接した両親は、「やれるところまで頑張りなさい」応援してくれたのでした。
営業への苦手意識はその後もなかなか払拭できず、悔しさがこみ上げることや無力感を抱くことが幾度もありましたが、両親の期待を裏切りたくない、自分自身にも負けたくない。その思いから踏ん張り続けていた数年間の日々が思い返されます。
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